野田笛浦

江戸時代後期の儒学者、漢文家。名は逸、字は子明で、通称は希一。別号に海紅園という。斎藤拙堂・篠崎小竹・坂井虎山とともに文章四名家と称された。日本画家の野田九浦、脚本家の野田高梧は孫にあたる。 丹後田辺藩の藩士の家に生まれる。13歳の時から江戸で古賀精里・古賀侗庵に学ぶ。昌平黌では落合雙石の後任として書生寮舎長に推挙される。文政9年(1826年)に漂着した清国商人を送還する事務を幕府から命ぜられ、清水港からその清国船に同乗して長崎まで行った。この時に清人と筆談した記録をもとに『得泰船筆語』を著し有名になる。安政4年(1857年)に田辺藩家老となり、藩政改革に尽力する。安政6年(1859年)7月21日死去。享年61。無常院(舞鶴市大野辺地区)に葬られる。
幕末期には“丹後田辺に過ぎたるものは時の太鼓に野田希一”という箱根峠の馬子唄によって知られた。門下には小永井小舟・岡田篁所・森琴石などがいる。

著作

  • 『笛浦詩文集』4巻
  • 『北越詩草』1巻
  • 『笛浦小稿』1巻
  • 『得泰船筆語』2巻
  • 『海紅園小稿』1巻